ピースボート「フライト&クルーズで地球一周の旅」

2015年8月出航の第88回「ピースボート地球一周の船旅」に途中のドバイから乗船するコースを選びました。

一人参加の「88日間フライト&クルーズ・旅の記録」です。

9. ピースボートで地球一周りの旅・ヴェネツィア


     <10月1日  気温18℃  北緯45.26度  時差−7H>


9月28日に訪問したアテネのピレウス港から、イタリア半島の東に位置するアドリア海を北上。午前7時、イタリア北東部のヴェネツィアに入港。


          


日の出の時刻です。緯度は北海道の最北端の地域と同じです。
さすがに寒くなりました。デッキではダウンを着ての撮影です。
    
ラグーンの入り口には、航路示す杭が延々と続いていました。杭をたどった先にはサンマルコ広場の時計塔が見えてきました。


昔は、侵略者がやって来るようなときには、この杭を抜いて敵の進入を防いでいたそうです。ラグーンの中は浅瀬のため、航路をたがえると、抜け出せなくなってしまうと思われます。


15年前に訪問したことのあるヴェネツィアでしたが、そのときは陸路から水上バスに乗って、サンマルコ広場までやってきました。
       
クルーズ船のデッキからは、その時は見ることのできなかったラグーンとヴェネツィア街の広々とした光景が目にはいりました。


資料によると、ヴェネツィアの町は、6世紀、異民族に襲われたヴェネト人たちが、湿地帯だったこの地に逃げ込んでできた町でした。その後、ヴェネツィアの町は発展し、現在、12世紀から18世紀の建築物が残っています。その街は、「逆さにすると森ができる」といわれています。


118の島を400の橋でつないだ街(南北2km・東西3.5k)ですが、地盤は土というよりは泥。そこに、5m〜10mの唐松材のくいを打ち込み、その上に、水に強い石を基礎土台として積んでいく。さらに、周囲にレンガの壁を立ち上げていく工法が取られていました。
  

      後方に見えるリアルト橋は、ヴェネツィア発展の歴史が始まった地

          

        ヴェネツィア誕生の時から人々の交通手段のゴンドラ


打ち込まれた水底の杭は、酸素がないので腐らずに、塩水と木に含まれるタンニンが反応して化石化して、家の重みをささえていました。


    

    


水上交通だけに頼るこの街は、500年前の景観がそのまま残り、現在は地盤低下が進み、高潮の発生時には、サンマルコ広場付近は1m近く浸水します。そのため広場周辺には、仮設の足場が積み上げられていました。


サン・マルコ大聖堂やドゥカレー宮殿の内部は、9世紀から18世紀にかけて貿易で栄えた面影を、そのまま残した豪華絢爛なつくりになっていました。
                     

   

                   

          

                        サン・マルコ大聖堂

   

                           ドゥカレー宮殿

           

                           ドゥカレー宮殿


ドゥカレー宮殿の見学では、小運河に隣接する牢獄から、尋問を受ける囚人たちが、溜め息とともにこの橋を渡ったことから名づけられた、溜息橋を渡りました。その隙間からは港を歩く人たちをわずかに見ることができました。


       

                         溜息橋

          

                     溜息橋の内部からの眺め


ヴェネツィア本島の見学後、ボートで島巡り。レース編みで有名な「ブラーノ島」は遠方から教会の塔の傾きが見てとれました。

   


ガイドさんからは、「近くからでは傾きはあまり感じないですよ」との説明がありました。島に上陸して見た結果、確かにあまり傾きは感じませんでした。(^-^)


          


また、この島は、霧の発生しやすい地域だったため、漁師だった男性たちが、家にたどり着きやすいようにと、家々は鮮やかな色にぬられていました。

     


船は夕刻、北に位置するドロミテの山々を背にして、アドリア海を南下、クロアチアのドブロニクを目指して航海をはじめました。


この日の深夜、乗客の男性が腸ねん転を発症しました。船には医師と看護師が乗船していますが、手術を要する状況のため、船は最寄の港に緊急寄航しました。


その男性は病院で手術を受け、その後、無事に帰国されたということでした。












×

非ログインユーザーとして返信する