9. ピースボートで地球一周りの旅・ヴェネツィア
<10月1日 気温18℃ 北緯45.26度 時差−7H>
9月28日に訪問したアテネのピレウス港から、イタリア半島の東に位置するアドリア海を北上。午前7時、イタリア北東部のヴェネツィアに入港。
日の出の時刻です。緯度は北海道の最北端の地域と同じです。
さすがに寒くなりました。デッキではダウンを着ての撮影です。
ラグーンの入り口には、航路示す杭が延々と続いていました。杭をたどった先にはサンマルコ広場の時計塔が見えてきました。
昔は、侵略者がやって来るようなときには、この杭を抜いて敵の進入を防いでいたそうです。ラグーンの中は浅瀬のため、航路をたがえると、抜け出せなくなってしまうと思われます。
15年前に訪問したことのあるヴェネツィアでしたが、そのときは陸路から水上バスに乗って、サンマルコ広場までやってきました。
クルーズ船のデッキからは、その時は見ることのできなかったラグーンとヴェネツィア街の広々とした光景が目にはいりました。
資料によると、ヴェネツィアの町は、6世紀、異民族に襲われたヴェネト人たちが、湿地帯だったこの地に逃げ込んでできた町でした。その後、ヴェネツィアの町は発展し、現在、12世紀から18世紀の建築物が残っています。その街は、「逆さにすると森ができる」といわれています。
118の島を400の橋でつないだ街(南北2km・東西3.5k)ですが、地盤は土というよりは泥。そこに、5m〜10mの唐松材のくいを打ち込み、その上に、水に強い石を基礎土台として積んでいく。さらに、周囲にレンガの壁を立ち上げていく工法が取られていました。
後方に見えるリアルト橋は、ヴェネツィア発展の歴史が始まった地
ヴェネツィア誕生の時から人々の交通手段のゴンドラ
打ち込まれた水底の杭は、酸素がないので腐らずに、塩水と木に含まれるタンニンが反応して化石化して、家の重みをささえていました。
水上交通だけに頼るこの街は、500年前の景観がそのまま残り、現在は地盤低下が進み、高潮の発生時には、サンマルコ広場付近は1m近く浸水します。そのため広場周辺には、仮設の足場が積み上げられていました。
サン・マルコ大聖堂やドゥカレー宮殿の内部は、9世紀から18世紀にかけて貿易で栄えた面影を、そのまま残した豪華絢爛なつくりになっていました。
サン・マルコ大聖堂
ドゥカレー宮殿
ドゥカレー宮殿
ドゥカレー宮殿の見学では、小運河に隣接する牢獄から、尋問を受ける囚人たちが、溜め息とともにこの橋を渡ったことから名づけられた、溜息橋を渡りました。その隙間からは港を歩く人たちをわずかに見ることができました。
溜息橋
溜息橋の内部からの眺め
ヴェネツィア本島の見学後、ボートで島巡り。レース編みで有名な「ブラーノ島」は遠方から教会の塔の傾きが見てとれました。
ガイドさんからは、「近くからでは傾きはあまり感じないですよ」との説明がありました。島に上陸して見た結果、確かにあまり傾きは感じませんでした。(^-^)
また、この島は、霧の発生しやすい地域だったため、漁師だった男性たちが、家にたどり着きやすいようにと、家々は鮮やかな色にぬられていました。
船は夕刻、北に位置するドロミテの山々を背にして、アドリア海を南下、クロアチアのドブロニクを目指して航海をはじめました。
この日の深夜、乗客の男性が腸ねん転を発症しました。船には医師と看護師が乗船していますが、手術を要する状況のため、船は最寄の港に緊急寄航しました。
その男性は病院で手術を受け、その後、無事に帰国されたということでした。